先日のウェブセミナーでは、多数の質問をいただき、ありがとうございました。

全てに一つ一つ回答はできませんが、まとめて順次回答させていただきます。

一番多い質問や、質問に混乱が見受けられることに「信仰と宗教の違い」がありますので、これを説明したいと思います。

「宗教が嫌いな人は、成功しやすい」ことも分かりますので、特に宗教が嫌いな人がお読みいただくと爆裂(爆発的成功)のトリガーになるかもしれません。

「聖書に隠された成功法則」をお読みいただいた上で、以下、読んでいただくと良いです。

●信仰とは神を信頼すること

聖書によると、宗教と信仰とは、一見似ているものの、全く別のものであることが分かります。

この違いを知らないと、多くの混乱や誤解が生じます。

まず、簡単に言葉を定義してみましょう。

「信仰」とは神を信頼することであり、目に見えない神を信じ、希望や期待をすることであり、親しく神と交わることです。

信仰は神と繋がることと言っても良いでしょう。

神は信頼されることを喜びます。

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
(ヘブル11:1)

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
(ヘブル11:6)

●宗教は信仰の偽物

一方、「宗教」という言葉は、いろいろな定義方法があると思いますが、ここでは「純粋な信仰とは違い、神が不在のまま、ある行事・儀式・教えだけが先行し、形式化してしまうこと」と定義します。

その本質は、「神抜きで、つまり神の恵みや助けなしに、人の力で神の国を実践しようとすること」と言えます。

つまり、宗教は信仰によく似た偽物です。

偽物を作るのは敵(サタン)が得意とするものです。

ここで定義した「宗教」は、神から来るものではありません。

●世俗化と宗教化

人が神を信頼すると、神に似た者となり、成功者や勝利者となるので、敵はそれを邪魔しようとして、私たちを「宗教的」もしくは「世俗的」のどちらかへ倒そうとします。

つまり、敵は人が神を信頼することのないように「宗教的」にさせるか、その反対に「世俗的」にさせ、バランスを崩させるのです。

「宗教的」も「世俗的」も、信仰(神を信頼し神とつながること)という中心から右か左かにずれた状態です。

これは誰もが陥りやすい罠です。

全ての人が、バランスを欠いていると言っても良いのでしょう。

成熟した信仰の鍵はバランスです。

右にずれても、左にもずれても、神の祝福から遠くなります。

あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行いなさい。右にも左にもそれてはならない。(申命記5:32)

「宗教化」「世俗化」のほかにも、敵(サタン)はさまざまな「異端」「偶像」を作り出して、信仰から遠ざけようとします。

これだけ、偽物やトラップがあると、人々が本物の信仰に近づくのは難しいと思うかもしれません。

しかし偽物やトラップの手口さえ知れば、信仰はとても簡単で単純明快なものになります。

真理は人を自由にします。

本質は常にシンプルです。

●正しく見分ける

神を礼拝することや、教会を形成することは宗教的ではありませんが、もし神とのつながりが欠けて、神の命が流れていないまま、ただの習慣・形式と化すなら、宗教になってしまいます。

しかし、逆に意識し過ぎて、宗教的にならないことを目標にしてしまい「いつも違うことをする」「常に新しいことをする」を目的にしてしまうと、それ自体が一つの形式となって宗教になることもあります。

つまり、何か特定のスタイルによって宗教的かどうかが判断されるのではなく、その根底にある霊性、つまりどんな霊に影響を受けているかで判断することになります。

正しい信仰とは聖霊(神の霊)がその助けをすることになります。

間違った信仰は、敵(サタン)の惑わしです。

神とつながって、命に溢れた心で、そのうえで行う礼拝などは、宗教的にはなりません。

最初は、聖霊に導かれてスタートしたことでも、途中で聖霊の声を聞く努力を怠ると、いつの間にか形骸化した宗教になっています。

「聖書を研究する」ことも、一種の宗教と化すこともありますし、「他の人は宗教的だが、私たちだけは違う」という誇りが宗教的になっていくことさえあります。

宗教とは、神との人格的(神格的)な交わりを無いままに生み出される自己中心な信念であり、信仰とは、神との人格的(神格的)な交わりによって得られる確信です。

この違いが分からないと「自分は宗教は嫌いだ」と言いながら、宗教的な人も出てくることになります。

神に頼らず自分の力に頼ったり、本来の神の目的とは違う方向に向かう時に宗教が入ってくるのです。

神が人に与えた目的ではなく自分が勝手に定めた目的を実現するという自己実現という概念(自分中心という概念)は、信仰の領域にまで悪影響を与えているという見方ができます。

そもそも、(自分が勝手に決めた目標に進むという)自己実現に向かわせるのも、宗教を作り出したのも、世俗的にさせようとするのも、神を信頼するのではなく、自分中心的な考え方であり、これらは皆同じ敵(サタン)の働きです。

この3つは、全く別のものに見えるかもしれませんが、自分中心にするというバイアスは一緒であり、敵の一番使う「人を神から引き離す手法」です。

一般の自己実現セミナーが宗教的であったり、世俗的であったりする傾向があるのも、根が一緒だからです。

●完璧主義と楽観主義

宗教化を引き起こす最大の要因は、完璧主義かもしれません。

これは、教会の歴史の中で、常に繰り返してきました。

教会が宗教化していくと、そこから脱して本来の信仰に戻ろうとする運動が起こります。

神は、純粋な心を持った人々を用いて、そのような運動を導きます。

しかし、その運動が進んでいくと、いつのまにか「純粋さ」ではなく「完璧さ」を求め始めます。

例外や、神の新しい働きを認めず、自分たちが「聖書的」と信じるもの(実際には、「部分的」でしかないのですが)を守るための活動になります。

すると新しい派となり、しばらくすると宗教的になってきます。

そこで、また、新たに「純粋な信仰に戻ろう」という運動となり、これも新しい派となり、しばらくすると宗教的になってきます。

これを2千年繰り返してきたことによって様々な派ができたともいえます。

これは無駄な繰り返しだったわけではなく、その時々に、聖書の中から深いレベルの信仰を読み取ってきた歴史でもあります。

そこには、神の知恵深い計画と宝があると言えます。

見方を変えると、深い信仰を読み取り、本来の姿に戻ろうとする運動は、敵の嫌がることでもあり、これらの運動に対して、やはり宗教というバイアスをかけられてきたと言えるのでしょう。

繰り返しますが、敵は偽物を作るのが得意です。

「純粋さ」の偽物として「完璧主義」を忍び込ませるのです。

そして、完璧主義は、宗教的になります。

敵の巧妙な罠です。

純粋さは、神にゆだねるお気楽さ(楽観主義)であり、完璧主義は、本来できないことをやらなくてはならない、やるべきだという欺瞞や心の縛りになります。

ちなみに「純粋さ」は決して「未熟さ」ではありません。

未熟なままの信仰は、異端(間違った教え)に惑わされます。

聖書の土台に立ち、バランスとテンションを柔軟に保てる純粋は、勝利者(成功者の上の概念)の資質です。

大切なのは、自分たちが、足りない者、失敗の多い者、知らないことの多い者である、という謙遜さです。

完璧な人はいないので、全ての人は宗教的になったり世俗的になったりすることがありますが、そのたびに聖霊(神の霊)によって軌道修正されながら成長していくと悟ることが大切です。

宗教化・世俗化・自己実現のロジックを理解することで、成長が加速することになります。

最強の信仰とは、8歳の子供が父親を信頼するような素直な純粋な信仰です。

これは、神を信頼するという面で子供のようだという意味であり、物の考え方において子どもであるということではありません。

ここにもバランスは大切です。

長文になってしまいましたが、今まで、この信仰と宗教の違いが明確になってなかったことが、世の中の混乱の大元であり、成功法則の分野においても大きな混乱がありました。

信仰と宗教の違いを理解する事は、成功者・勝利者に向かって爆裂(爆発的成功)するための鍵です。

これは、本質を分かる人は成功するという意味でもあります。

●聖書に興味がある方は、以下の2つの無料メルマガをお勧めします。

○聖書の言葉と聖書のダイレクトなメッセージ メルマガ&ブログ(無料)
ウインド・デザイン
https://www.wind-design.com/

なお、ウインド・デザイン↑では、献金・寄付を受け付けています。
(有効に用いられます)

○聖書のハイエンド・メッセージ メルマガ&ブログ(無料)
プレミアム・クラリティ
https://www.premium-clarity.com/

●投資に興味がある方は、以下の無料メルマガをお勧めします。

○イーグル・ビュー
https://www.pro-fx.info/